30 7月 2016 - 14:32
6代目イマーム   イマーム・ジャッファル・サーディク(AS)

本日は、シーアは6代目イマームであるイマーム・サーディク(AS)の殉教日であるのに因み、この聖なるイマームについてご紹介します。

聖なるイマーム・サーディク(AS)は12人のイマームたちの中の6代目である。その通称はアブーアブディッラーであって、彼の有名な称号はアッ・サーディクあるいはアル・ファーディルさらにはアッ・ターヒルである。

父5代目イマーム・ムハンマド・バーキル(AS)と、彼の母はウンム・ファルワーの間にヒジラ83年ラビユル・アッワル(太陰暦3月)17日(月)メディナにおいて誕生したのである。イマーム・サーディク(AS)は祖父である4代目イマーム・ザイノ・ル・アービディーン(AS)によって12年間メディナにて育てられ、そのあとの19年間は父である5代目イマーム・ムハンマド・バーキル(AS)の聖なる保護のもとにあった。

 

 

イマーム職を引き継ぐ

ヒジラ114年に、聖なる父が死去した後、彼は6代目イマームの職を継承しイスラムの聖なるミッションと精神的指導という聖なる委任は、預言者から代々のイマームたちを経て彼の手に引き継がれた。

 

政治的状況

彼がイマームであった期間はイスラムの歴史のうえで、ウマイヤ帝国が崩壊しアッバース朝が興るという最も劇的な時代にあたる。内戦と政治的動乱は政府の急激な変動をもたらしつつあった。このようにして、イマーム・サーディク(AS)はウマイヤ朝のカリフ、アブドゥル・マリクからワルマン アル・ヒマールに至るいろいろのカリフ(王)たちの治政を目撃した。イマームはまたアッバース朝のアブル・アッバース アッ・サッファーとアルマンスールの治政も目の当たりにした。イマームがあまり妨害を受けることなく彼の献身的な義務を遂行し、イスラムを宣教して、預言者の教えを広めるという彼の使命を平和的に続けることができたのはウマイヤ朝とアッバースという2つの勢力が権力のためにお互いにしのぎを削って争っていたからである。

ウマイヤ朝の最後のころになると、その帝国はグラグラとして崩壊寸前となり、イスラム圏全域を通じ、極度の混乱と風紀紊乱に陥った。アッバースはそのような機会を巧みに活用し、この政治的不安定を自分たちの都合の良いように利用して「バヌー・ハシムの復讐者」と名乗った。彼らはウマイヤ朝がイマームフサインの罪のない血を流したことに対し復讐するために立ち上がったのだと称した。

ウマイヤ朝の足械の下に苦しんでいた一般大衆はその残虐行為に飽き飽きし、、預言者の子孫が権力の座に就くことに内心憧れていた。もし指導権がその正当な相続者であるアフルルバイトに行くならば、イスラムの名声、威信は高められ、預言者のミッションが純粋にに広められることを彼等は良く認識していた。しかしながらアッバースのグループは権力を。バヌー・ハシム(ハーシム家)に渡すために権力をウマイヤから奪取するだけだ、という口実のもとに権力を掌握する闘争に全力を投入した。事実、彼らは自分らのためだけに陰謀をめぐらせた。一般大衆はまんまと騙されて彼らを支持したのであるが、アッバースが権力を握った時かれらはアフルルバイトに反旗を翻した。

 

宗教的状況:

ウマイヤ朝の没落とアッバース朝の台頭はイスラム史のドラマにおける二大陰謀をを提供している。この時はイスラムの宗教的モラルが地に落ち、聖預言者の教えは無視され、無政府状態がはびこり最も混乱した革命的時期であった。周囲の罪深い暗黒の大海も照らすために光を投げかける“タイマツ”の様にイマーム・ジャッファル・サーディク(AS)がすくっと立っていたのはそのような真の暗黒のなかであった。世界は彼の高潔で賛嘆すべき人格に傾倒した。アブー サラマフ アル・ハラールは彼にカリフの玉座を差し出した。しかし祖先からの独自で独特な伝統を固く守るイマームはそれを受けることをキッパリと辞退し、そのために献身する目標:イスラムへの奉仕に専念する道を選んだ。無神論者、クリスチャン、ユダヤの聖職者たちと多くの討論のために。

 

教え:

 

知識のすべての分野におけるイマーム・ジャッファル・サーディク(AS)の多彩な天才的才能はイスラム世界を通じて拍手喝采を呼び、非常に遠隔の地からも彼を慕って多くの弟子たちが集まり、その数4000人に達した。神学法についての学者たち、専門家たちはイマーム・ジャッファル・サーディク(AS)から多くのハディース(伝承)を引用してきた。彼の弟子たちは科学と芸術のいろいろな分野について何百という本を編纂した。フィクフ(イスラム法学)、ハディース(伝承)、タフスィール(クルアーンの注釈)のほかにイマームは数学および化学をも弟子のある者たちに伝えた。有名な数学者であるじゃビール ハイヤーン アットウーシーもイマームの知識の指導によって、便宜を受けた弟子のひとりであって、そのおかげで彼は異なったテーマについて400冊の本を書くことができた。

イスラムのすべての偉大なる学者たちはその知識、学問を一つに「知識の源泉であるアフルルバイト」の存在に負うており、すべてを彼等から学んだということは否定することのできない歴史的事実である。

アル・アラヤー アシュ・シムリーはその本「スィラートゥウン・ヌマーン」の中に次のように書いている。アブーハニーファ(スンニ4学派の中の1つの樹立者)はかなりの間イマーム・ジャッファル・サーディク(AS)の許に留まり、膨大で貴重なフィクフとハディースついての研究をイマームから学んだ。シーア・スンニの両派がアブーハニーファーの知識はほとんどイマームとの接触によって得たと信じている。

イマームは、生涯をかけて宗教の宣教と、預言者の教えを伝えることに献身し、決して権力を求めなかった。彼の偉大な知識と立派な教育のゆえに人々は彼の周りに集まり彼が当然受けるべき献身と尊敬を捧げた。このほどはイマームの人気を恐れるアッバースのカリフ、アル・マンスール アッ・ダワーニクィーの嫉妬心を煽り、彼はイマームを亡きものにしようと決心するに至った。65歳のイマームは、ヒジラ148年シャウワル(太陰暦10月)25日(月)毒殺され、34年間のイマームとしての任+期を終え、イマームの遺体は父である5代目イマームと同じマディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に埋葬された。

 

(イスラーム案内『シーア的観点より』澤田沙葉 訳より引用)

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